難読地名「帷子ノ辻」

帷子ノ辻(かたびらのつじ)おそらく初見で読むことができるのはあまりいないであろう…

「帷子」とは。

装束の上に羽織る、ひとえもの*を意味している。
 ひとえもの(単物)…裏地のつかない,装束の 下着 のこと。 単 (ひとえ) ともいう。

ではなぜ「帷子の辻」となったのか。

帷子辻の語源には諸説ある。一説には、平安時代初期の嵯峨野天皇の皇后であった檀林皇后橘嘉智子(たちばなのかちこ)が亡くなり、その葬儀の車がこの辺りに差し掛かった時一陣の風に遭い、棺を覆っていた経帷子が飛び散ったため、という説がある。しかし『文徳実録』によると、皇后は天皇の譲位後とともに嵯峨院(現在の大覚寺)に住んでそこで亡くなり、翌日現在の嵯峨鳥居本深谷町の山中の陵に葬られたという。

地理的に考えてみると、葬儀の際に現在の大覚寺から東の方へわざわざ移動したことになり、現実的ではないため、説としては興味深いが、あくまで一説でしかない。

次に注目する点としては「辻」という文字が使われている事だ。この字は本来道に関してつけられたものであるため、「帷子辻」という地域もその由来として道に関係していると推測できる。国語辞書では「辻」とは「道が従事に交差しているところ。十字路。道端。」とされており、地理的にみると帷子辻もほぼその要件を満たしている。1780年の『都名所図会』では、帷子辻は、材木町の東にあり、上嵯峨・下嵯峨・太秦・常盤・広沢・愛宕等の分かれ道なり。」となっていて、現在でも三条通が嵐山に通ずる幹線として貫き、その北側には双ヶ岡から北嵯峨にかけて嵯峨野の段丘が連なって、その南端にはいまの嵐電「帷子ノ辻駅」がある。

明確な由来は定かではないが、その地に伝わる伝説や交通の要衝という側面から現在の「帷子辻」という名前が付けられているのではないかと考えられている。


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