臨済宗天龍寺派の大本山 天龍寺

天龍寺は、京都市右京区嵯峨に位置する臨済宗天龍寺派の大本山で、
正式名称を「霊亀山天龍資聖禅寺」という。
1339年に吉野で亡くなった後醍醐天皇を弔うために、
足利尊氏が夢窓国司を開山として創建した。

この地はもともと嵯峨天皇の后が開創した壇林寺があったところで、
幼少期の後醍醐天皇が過ごした場所でもある。

夢窓国司は建立の資金調達のため、
「天龍寺船」による中国・元との貿易を進言し、
1343年にはほぼ七堂が整った。

その後夢窓国司の門流は興隆し、
天竜寺は京都五山第一位の寺格を誇った。

天龍寺は創建以来8回の大火に見舞われ、現代の堂の多くが明治期の再建によるものである。

大方丈から望む曹源池は、国の史跡・特別名勝第一号に指定され、1994年には世界文化遺産に登録されている。

また、天竜寺は禁門の変に所縁のある寺としても知られている。
禁門の変は幕末の1864年に長州藩と幕府方が京都御所付近で行った戦闘である。
1863年の八月十八日の政変により、
尊王攘夷を主張する長州藩は公武合体派の幕府方(薩摩藩・会津藩など)によって京都から追放された。

このことを受けた長州藩は、
翌1864年に長州藩が会津藩藩主・京都守護職の松平容保らを排除する為に挙兵し、
京都市内で市街戦が繰り広げられ、
約3万戸が焼失した。

中でも京都御所の御門付近が激戦地だったことから
「禁門の変」または「蛤御門の変」と言われている。

禁門の変

この禁門の変で、
天龍寺には長州藩家老の国司親相(くにしちかすけ)、
遊撃隊総督の来島又兵衛(きじままたべえ)

らが兵を集めて陣営を構えており、
ここから京都御所を目指して進撃したとされる。

幕方の意表をついた長州藩は当初優位だったが、
薩摩藩の来襲によって徐々に敗退し、
最終的には全面的に撤退。

その後長州藩は御所を攻撃したとして朝敵となり、
第一次長州征討が行われることとなる。

その長州藩が戊辰戦争を経て倒幕を為すのはこの後の話。

これは余談になるが、
先の国司親相は敗戦後の天龍寺で
「はかなくも 風の前の 燈火の 消えゆることのみ 待つ我が身かな」
と詠んだそう。

世界遺産|京都 嵯峨嵐山 臨済宗大本山 天龍寺 公式ホームページ (tenryuji.com)

▽アクセス検索はコチラ▽

▽最寄り駅情報はコチラ▽

TOP